Top > Stories Vol.04
-ひたむきな情熱が、世の中を変えていく。こころざしストーリーズ-
すしなら、僕らは世界一になれる。第4回 鮨かねさか 代表取締役 金坂 真次さん
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野球では挫折した自分。金坂さんは、すしとは、どんなふうに出会ったのですか。
生まれ育った場所は、目の前が海でした。千葉の九十九里で、祖父が漁をしていたので、それを浜辺で手伝いながら遊んでいるような子どもです。ちょっと大きくなったら魚の仕分けもできていました。今、思えば、その頃から魚には興味があって、魚を見る目も育まれていたのかもしれません。でも、そのときは、すし屋を目指してなんていません。小学校の頃から兄と一緒に野球を始めて、それからは中学校、高校と野球一筋。夢はプロ野球選手という野球少年。でも高校に入った瞬間、全国から生徒が集まる強豪校だったので、自分の実力では野球界で生き残ることは難しいとわかりました。高校の3年間までは頑張ろうと、でもそれ以上は野球の道を進むことはしないと決めました。そうしたら、野球部の寮からは出るように言われて、それで居候させてもらっていたのがおすし屋さんだったんです。高校卒業後、調理師学校に1年通って、それですし職人の道に入りました。野球で挫折して何かを探していたときに、これなら勝てるんじゃないかと思ったんです。洋食や中華のように味をつくりだす「料理」ではなく、すしのシンプルさ、素材の味を活かす「調理」に自分はひかれました。
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皿を洗いながら、その後、銀座の名店に入られて、修行の10年を?
はい。求人を見ていたとき、某有名すし店の求人がありました。千葉の田舎者なので、それが有名な店だということも知りませんでした。面接のとき、北大路魯山人の写真を見て「何人ですか?」と聞いて、「そんなことも知らずに来たのか」と言われましたが、体力がありそうだからと採用されました。最初の2年間はまだバブルの時代。朝5時から夜中の1時まで全く休めない。小僧はずっと皿洗い。飯を食わせてもらえればいいほうという生活。厳しかった野球部の練習以上に辛かった。でも、だからといってやめようとは思わず、こうなったら人が3年かけてやることを1年で、5年かけることを3年で身につけてやると思いました。ちょうどプロ野球で「FA制度」が始まった頃で、自分も10年やったら絶対に独立してやると心に決めました。洗い物をしながら仕入れの伝票を見て、どのくらい儲かるのかを計算したり、予約のお客様が何が好きなのか、好みのビールや酒の銘柄、熱燗かぬる燗か、その方の好みをコースターの裏にメモしていました。だから、すしを握らせてもらえるようになって、店長のお客さんが急に回ってきたときも、「いつも通りでいいですか」と言えたんです。「お前、俺をやるの初めてだろう」と言われるんですが、ぜんぶ僕がわかっているので驚かれました。チャンスや自分の出番は急に訪れる。そのときに出ていける準備をしておくようにとは、若いやつらによく言っています。決めていたように10年間、そこで人生の準備をさせてもらって、2000年12月に自分の店を開きました。
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カンヌに期間限定のお店をオープン。28歳で独立して15年が経ちました。振り返っていかがですか。
銀座の大先輩からは、銀座は5年でスタートライン、10年で初めてやったと言える、10年間休まずやりなさいと言われ、最初の5年くらいはがむしゃらな戦国時代。何を言われようと関係ない。とにかく朝早く行って、一番の魚を全部買っていた。資金繰りが厳しくてもうダメかという時期もありましたが、ポイントポイントで出会いに恵まれて、影響力ある方に食べていただくことができ、その方のネットワークでまた多くの方が来てくださった。そうするうちにミシュランの星をいただいて、そのときは、今だと思い、立上げからいたメンバーに店を出させました。リーマンショックのときは、高額な料亭で行われていた接待がうちに降りてきたせいで、売上が落ちることはありませんでしたが、じっと景気を待ちました。
でもおとなしくばかりしていてもしょうがない、ピンチの後の今が攻め時と思い、2011年にカンヌに3ヵ月間限定のお店を開きました。このときの経験が大きかった。ヨーロッパでの料理人の地位の高さ、社会から受けるリスペクトに驚いた。日本は飲食業の地位が低い。料理人の待遇も良くない。これを変えようと思うようになった。世界を目指すぞと若いメンバーには常に言うようになった。シンガポール店、マカオ店も出した。社員全員連れてシンガポール研修に行ったり、社員に英語のレッスンも始めました。
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日本の若い職人たちに、今、金坂さんのこころざしとは?
日本のすし文化を世界に広げたいという気持ちはありますが、まだそこまで大それたことを言う段階じゃない。料理人の地位が、まだまだ日本のなかで低いと思うんです。「和食」を文化遺産として大事にしよう、世界に発信しようと言いつつ、国も、その和食をつくる料理人を大事にしていない。業界もまだ丁稚奉公の世界と思われていて、雇用の安定したイメージがない。ここを変えないと、料理人を目指す人が増えない。すしはものすごく可能性を秘めたコンテンツ。世界で勝てるコンテンツ。それを担う人を大事に育てることから、うちは挑戦したい。働きやすい環境づくりをして、待遇や教育をよりよくして、もっとイケてるチームになりたい。若い職人たちには、大きな誇りも夢も持ってもらいたい。もう僕たちは世界に勝てるコンテンツを手にしているし、世界というフィールドに立っているんだぞといつも言っています。昔の自分のように野球で挫折を感じている若者には、すしでメジャーへ行こうと声をかけている。すし職人に憧れて、若い人がもっと集まってきてくれるようにしたい。すしは日本で一位なら世界で一位。自分の中に持っている日本の文化で、世界一になるんだという熱いやつにもっと出てきてほしいんです。
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すし文化とは、人の生き方。こころざしの実現の先に、描いている世界はありますか。
世界の方たちとお付き合いさせていただくようになってみると、意外と世界って狭いなあと思うことがあります。うちの小さな店で、海外の方同士が偶然に出会っていたり。ひとつのカウンターにいろんな国からのお客様が並んで一緒に食べておられたり。すしを通して、国を越えて、人間って一緒なんだなという想いを持つようになりました。すしという共通語で、世界の人が通じ合えている。今、海外出身の子も3人うちで働いてます。いつか、海外で現地のすし職人を育てて、その土地にあるものを握って出すような世界もあるんじゃないかと思っています。すし文化って何かって、人なんです。シャリとわさびとネタの組み合わせだけで、調味料もないのに握る人によって味が違うのは、その人の手から出す気が調味料になっているわけです。手からバーッと入るんです。その人の生き方が一貫のすしに表現される。外国人のすし職人がいたっていい。日本のすし文化が海外の料理文化に取り入れられたっていい。いろんな生き方が表現されていいと思います。夢はいろいろあるけれど、今は大きいことは言わない。まずは目の前の若い人たちと一緒に、そういうところまで目指してやっていこうという気持ちです。
世界で日本食が注目され、各地から数多くのオファーを受けている「鮨かねさか」グループ。日本も国をあげて、日本のコンテンツを世界へ売り出そうと浮き立っている今、金坂代表からも勢いの良い夢が語られるのではと予想した。しかし、まずは若い職人の働きやすい環境づくりだと金坂氏は言う。つくる人がいてこその文化であるという指摘にハッとさせられた。次の飛躍に向かうための、地道ながら本質的な足場づくりに「鮨かねさか」の挑戦が始まっている。